2008年10月10日

遺伝子

母はALSという難病に、ある日突然、罹患したのだけど
原因がわからないから、難病
治療法がない

母と生活していたときは、私が風邪ひとつひいて寝込んでも
介護に差し障るので、健康には注意したし、万が一ケガをしそうな
ことは、やめていた

母が亡くなって、万が一の危険は今も困るけれど
危険の可能性が低く、フツウに生活してる人ならできることを
やろうと思っていた

骨髄バンクへの登録

治療法があるならば、どんなことでもしたかった母との生活で
病気に対して、なにもなす術がないことは歯がゆいものでした
治療法があり、その役にたてるならと思っていた

けれど。。。ALSである母をもった私は登録ができないのだそうです

遺伝性はないと言われているけれどやはりその遺伝子をもった人の骨髄を移植することは。。。

ちょっとショックでした
輸血もできないのだろうか?

なんだか、なにも役にたてない体なのかと思うと残念だけど
でも、私には手があるからな

その為に、今の仕事に出会えたのかもしれない



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2008年07月13日

なにげなくかけたMDから流れた曲を聞いて
母のことを思い出し、涙がでてきた

亡くなったお母さんのことを歌った歌だと後から知った

母のことは、思い出さないように記憶の中にじっと抱えている

母が自分の意思を伝えられた最後の日が去年の7月初旬だった

なにを話したか、なにをしたか覚えていないけれど
母は、お世話になっていたマッサージの先生への感謝の気持ちを言い
そしてなにか言いたそうにしたけれど
たぶん、私が困ると思ったのだろう

そのまま天井を見つめた目を覚えている

仕事が軌道にのったら、会いに行く回数を増やして
そしてまた、家で生活できる道を作ろうと思っていた


それから2週間たたないうちに、母の容態が急変した


以前、とてもお世話になっていた看護士さんと
3年ぶりに再会した

会うなり、大きな花束を渡された

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「Yさん 介護おつかれさまでした」
13人の名前が記してあった

1人ずつ名前を読み、母を介護してくれていた姿を思い出した

あの時もそして今も母はたくさんの人の心のなかにいて
そして、私も1人じゃないんだなと思う





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2007年10月03日

最後の月

7月31日

夏休みで祖父母の所に帰省する次女を羽田空港まで送った帰り道

無事に飛行機に乗ることを見届けて
やれやれ、しばらく静かな我が家だなぁと思いながら
新幹線にのりこんだ

あと20分くらいで駅につくとき
携帯がなった

市外局番047は、母のいる埼玉からだ
何回かなったので、デッキにうつりかけなおした

やはり母のいる埼玉の施設からだった
「今から入院しますがよろしいですか?」と唐突に言われた
状況が飲み込めなくて
「お任せしますが、すぐに行った方が良いですか?」
と尋ねると
「とりあえず、入院の手続きには来て欲しいですが
すぐではなくても良い」という答えに安堵する

電話をきって、このまま東京に戻り母の入院先へ行こうかと思ったけれど仕事もあったので、東京にいる兄に病院へ行かれるかメールをいれた
「行ける」と返事があり、ひとまず仕事場へむかった

出勤すると予約のお客様がキャンセルになり
そして、なぜか胸騒ぎがとまらなかたったので
早退をさせてもらい、再び新幹線にのった

途中、先に病院に着いた兄からメールがきて
「かなり深刻だよ」

なんで。なんで。
こないだ会ったときは元気だったのに。。。
そんな悪いはずがない


病室にはいると、変わりはてた母の姿と
かたわらに、着替えだけがはいったいビニール袋がひとつ置いてあった

母は意識があるのかもわからない状態で
手も足もパンパンに浮腫み腫れ上がり
唯一の表現手段だったまばたきが出来ないため
眼球保護の為に、目の上にガーゼがのせられていた

当直の先生しかいないので、詳しい検査や説明は明日と言われた

手や足のリンパの流れをよくしようとひたすらさすっていた

翌日、主治医の先生から、開口一番
「覚悟はできているんですか?」と言われた

・・・(母が)入院したときには、すでにこの状態で、今までの経過もよくわからない。腎不全と心不全をおこしていて、おそらく肺に水が溜まっているかもしれないが、検査の為に動かすことさえ危険なため、これ以上の検査はできません。今後、点滴による抗生物質の投与を行っても、もともとの免疫力が落ちていることが予想され
回復の見込みは難しく、長引くことになりますが。
どこまでの治療を望みますか?
と聞かれた

「今できる限りのことを」と答えるのが精一杯だった

それから、静脈からの高カロリー輸液をいれる処置が行われたが
うまく入らなかったらしく
途中で病室を覗くと
血だらけになった母が肩をまるだしにされたまま
横たわっていた

母にタオルをかけて、これから続く病院での生活を思うと
暗闇のなかに放り出されたような気持ちになった

私が医者だったら、看護士だったらなと痛切に思った
今は、なにをしてあげることもどうしていいかもわからない

在宅療養中は、病気での入院はおろか、風邪ひとつひいたことがない母だった

とにかく、そばにいることしかできない
一生懸命に身体をさすると、浮腫みは引いたような気がした

ALS協会の会長、橋本みさおさんへ電話をかける
発病以来、20年はたつ橋本さんは人工呼吸器をつけていながらも
24時間介護をうけながら、海外にもでかけている
今までも事あるごとに相談をしていた

母の状態を説明する
「いま、母は苦しいのでしょうか?意識はあるのでしょうか?」
「本人は、苦しくはないから大丈夫よ。見ている家族が一番辛いだけ。そばにいてあげて」といわれた

今までは、母がどんな状態でも、意識があることが救いだった
でも、今は、意識がないことを願っている
こんな状態で、意識があったら辛くて苦しくてたまらないだろうと

でも必死で呼びかけた
子供たちも来て、母に話しかけるとわずかに反応した

飛行機でもどった下の子は、「笑わせたらいいんじゃないの」と
母についている機械の数字を見ながら、携帯の音楽を聞かせたり
おもしろいことを言ったりしていた

8月の上旬、あらためて主治医から
「私が、はじめにイメージしていたとうりになりました。
肺機能が働いていないので、今週一杯だと思います」

お世話になったヘルパーさんたちや、マッサージの先生達がお見舞いに来てくれた

その度に母の反応はよく、とにかく少しでも回復して
地元の病院へ転院できるようにと私も願った

少し落ち着いたなと私が病院から家へ帰ると母の状態が悪くなり
病院から電話が入ることが何回も続いた

9月に入り、子供たちの学校も始まり
病院に頻繁に行くことが出来なくなった

休んでいた仕事も再開しなければいけない

とにかく、静岡に連れて帰ってこようと
地元の病院や訪問看護士さんに連絡をいれ
容態が落ち着けば受け入れ可能という返事ももらっていた

私が行くと、母の反応はよく、手や足をさすると
浮腫みもよくなっていた

9月17日
病院から再度の電話「血圧がさがっています」
下の子と病院へ行った

病院へ着くと血圧は、正常値に戻っていて
下の子と一緒に母の身体を拭く
たまっていた洗濯をしようと近くのスーパーへ洗剤を買いに行った
下の子が、綿菓子を買った

退屈であろうなにもない病室で、母に話しかけたり
身体をさすってくれた
洗濯を一緒にたたんで、夕方、家に帰った
いつも母が家に居たときのような時間が流れた

夜になり、仕事の引継ぎのため、職場へ行くと
丈君のお母さんが声をかけてくれた
「おばちゃん、どう?」
「Yちゃんにそばにいてほしいんだよ。丈君もそうだったから
なるべく居てあげな」

仕事をしようと階段をのぼると携帯がなった
病院からだった
「血圧が、さがっているからきてください」
子供たちのごはんと明日の支度をして、新幹線に乗った

血圧は正常に戻っていた
母に「もうなにも心配しなくていいからね」
「私も子供たちもちゃんとやってるから」と伝えた
翌朝、落ち着いていたので、子供たちの登校までに
家に戻ろうと始発の新幹線にのった

午前中は兄が行ってくれるというので仕事にでかけた
兄からメールがきて「落ち着いているから仕事に戻る」

これで、しばらく母は落ち着くかなと思って
久しぶりの我が家で眠りについた

翌朝、電車にのって、しばらくすると携帯がなった
病院からだった

「心臓の動きが悪いです。どれくらいでこれますか?」
切迫した空気が電話の向こうに流れていた

病院へ向かう新幹線にのると先に病院についた兄からメールがきた

「間に合わなかった」

新幹線の席に座ることが出来ず、デッキにたちつくした

病室につくと、母の身体についていた全ての器械がとれて
顔の上に白い布がかぶせてあった

まだ、温かい母の肩をさすって人工呼吸器の音や脈拍の音がしない
静かな母の傍らに立ち、これでやっと家に連れて帰れるなと思った

母が居るときは、介護の時間の段取りやそれとかね合わせての
仕事のやりくり、いつも時間に追われて、いつなるかわからない携帯を手放すことがなかった

たくさんの人に支えられての10年間だった

母が埼玉の施設に移ってからは
誰も居ない静かな我が家に1人帰る下の子や
いつまでも仕事が終わらない私を待ちくたびれて寝てしまう二人を
見て、母が居てくれるだけで、どれだけ私自身が支えられていたのかなとよく思った

それ以上に仕事に打ち込んだつもりだったけれど

今、なんでも自由になんの制約もない時間をすごせるようになると
なんの力もわいてこない自分に驚いたりしている

後悔はない
精一杯やったし、母も生きぬいたと思う


母が最後に詠った歌

難病で治療法なく薬なき さすってもらう

7月10日

途中で終わっていた

もしも私の手が、誰かの気持ちを少しでも穏やかにできるのならば
前を向いて、今の仕事を続けていこうと思う

出会えた全ての方に
母の代わりに伝えたいです

本当にありがとうございました

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posted by shio at 20:58| Comment(8) | ALS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年05月26日

さようならを

毎日、たくさんの方が母にさよならを言いに来てくれています

母だけではなくて、私も支えてもらっていたんだなと
やりとりを聞いているのが、切なくて
このままこの生活が続けられたら、どんなにいいかと思った


「どれだけ尽くしても悔いなくいられる事はないと思うけど
残りの数日間悔いなく過ごせる事と移動の無事をお祈りしています」

「新しい道できっとお母さんも頑張ってくれるし、Yちゃんも
前を向いて進めると思うよ。少しずつ歩いてね」

「新しい出会い、心安らげる人と出会えますように」

友だちから、そして移動になった看護士さんからもメッセージをいただきました

今、現在、母の生活を支えてくれている人たちの数
50人はこえると思う

別れても 今の幸せ続くよう しっかり生きて行くつもりなり


今は、言葉がみつからない
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2007年05月24日

光ある明日へ

1998年
今から9年前の4月、父が57歳で亡くなった

その3ヵ月後、二人目の女の子がこの世に降りてきたとき
母が、難病ALSを発病した

1年間は、母の病名がわからなかったけど
Rちゃんが、この世界の空気にふれたときと
時を同じくして、母の病名が告知された

あれから、ながぁいながい時間がすぎた

色んなことがあり、傷ついたりだれかを傷つけたこともあったような気がする

母が、家で過ごすのは難しいと感じ始めてから
たくさんの葛藤があった

助けてくれる人もたくさんいたし、批判もたくさんあった

その中で、正しい答えなんて見つからなくて
いつからか、感情を表に出さない生き方を身につけたような気がする

母は、来週、埼玉の療養施設へ移ることになった

決めたのは、私で、母の希望ではない

2004年

母と子供たちとここに帰ってきたとき子供たちには選択肢はなかった

小学校4年生だったAちゃんが今年中学生になった

164センチ〜話していても最近は目線が一緒になっていることに驚いた

2人は、いつも元気で明るく新しい環境になじもうとしてたと思う

2007年

私は、小さいときからよく熱をだして、高校生になっても大学生になっても、何回か入院して、たくさん心配かけたと思う

母の荷物をまとめていると
私が大学生になり東京へ行くとき、母はどんな気持ちだったかなと想う
結婚すると言って、遠くへ行くことになり、どんな気持ちでいたのかなと...


今は、なにが正しくて、何が間違っていたのか
そして、どうすればよかったかもわからない

ただ、だれかに頼ったときに、そのすべてが失われることが怖くて
自分に少しずつ嘘をついたのかなと思う








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2007年02月03日

神様はきっといる

今年になって、なかなかブログに向かうことができなかった

私が仕事を持ち、介護をして、子供たちを育てて...
毎日毎日をしっかり歩いてこられた後ろには
たくさんの人の支えがありました

それを当たり前と思ったことはなかったつもりだけど

9時から21時まで、母のそばに居てくれる人たちがいた

それがなければ、やりがいを持って仕事をして
子供たちのことも...まして自分のことなんか、まったくできなかったと思う

1つの事業者から
今後サービスにまったくはいれなくなると
突然に言われた

そのとき、私は新しい仕事を引き受けたばかりで
そこが来られなくなると、仕事がまったくできなくなると
一瞬、目の前が真っ白になった

ただ、私にも事情があるように、介護士さんたちだって
それぞれ家庭を持ち、様々な悩みを持ちながら
仕事をして、生活をしているだろう
辞めなければならない事情もあるし、事業所の方針もある

そこの事業所は、当時どこも引き受けてくれなかった
ヘルパーさんの吸引を(人工呼吸器をつけていると絶えず痰の吸引をしなければ痰がつまって死んでしまう)了解してくれた所だった

彼女達がいなければ、今の私はなかったと思う

真っ白になった目の前には、今までの感謝の気持ちしか浮かばなかった

そして、サービスがなくなるからできないのではなく
私がもう介護を続けられないんだと悟った

今まで、よくやってもらったし、私もちょっと頑張ったかなぁと思った

それから、母を受け入れてくれるところを探し
...といっても病院はなく、以前読んだALS家族会の会報誌から
ある施設を見つけた

そこは、家から車で3時間はかかる静かな場所でした

見学に行き、対応してくれた代表者の方は
20代後半と若く、真っ直ぐな誠実な方でした

看護士であるお母様が
難病患者の受け入れ先がなく、途方にくれる家族の代わりに
安心して過ごせる場所として、全国にも珍しい
在宅という形で、入所ではなく入居するケアハウスをたちあげたそう

私財をすべてなげうって、始めたそうです

お話をして、申し込みをしました

まだ、母は家で過ごしますが、近い将来、家を離れることになると思います

本当に困ったとき、いつも誰かが助けてくれた気がする
今度は、私が誰かのことを助けたいと強く思っています

高校を卒業して、両親と離れ
大学を卒業するとすぐ、もっともっと遠くへ離れた

父や母が元気だったら、こうして一緒の時を過ごすことも
たぶんなかっただろう

でも、母とこうして、8年一緒に過ごせた

母の発病は、下の子がお腹のなかにいるときだった
この8年は、赤ちゃんだった娘が、私を助けてくれる頼もしい存在に
成長した大切な大切な時間だった
お姉ちゃんは、中学生になる

まだ、割り切れない気持ちは残っているけれど
母にも私にも、そして誰にでも
神様はきっといると思う

今日は、節分で新しい年がはじまる日とも言われている

昨日の夕焼けは、ピンクと薄紫とオレンジが混じりとてもキレイだった

新しい一年が、疑ったり、不安に思ったり、心を閉ざすのでなく
心をきれいに、穏やかに落ち着いて、優しい気持ちですごせるように

私につけてもらった名前の意味をいつも心に留めておこうと思う

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子供たちが最高に喜んだディズニーランド

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母が天国と言った温室のブーゲンビリア

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親友からもらったブーケ

新しい年も、たくさん良い思い出、できますように




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2007年01月31日

天国の空気

下田爪木崎の水仙を見にいきました

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母は「天国に来たみたい」と言った

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そんな...大げさなと思ったけど
そう思って、海をみると遠くに大島も見えて、白い灯台も...
なにより空気が澄んでいて、スイセンの香りが漂う

天気は最高で、空は青くて、風もなく、あたたかい

本当にそうかもしれないと思った


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近くには温室もあって、そこは、南国の天国

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菜の花も咲いていました

6年前に、祖母と母と私たち家族で、小豆島へ行ったことを思いだしました
小説「24の瞳」の舞台となったこの島にも
菜の花がたくさん咲いていた

きっと、母はそのことも思い出しているだろうと思った

人は、それぞれ役目をもって、この世に生まれてきたのだと思う

その役目をしっかり心に持って、果たすことが生きていくことなのかなと

そうしたら、きっと、こんな天国が待っているんだと思った

そこで、母は、大きく深呼吸ができるだろう
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2006年12月26日

ありがとうを

色々な人の協力があって、今の自分があるのだと思う
母が難病になってから、大変なこともたくさんあったけれど
それ以上に、人との出会いや優しい気持ちを
もらったことを強く感じた1年だった

落ち込んだ時にはいつも一緒に居てくれた友達
悲しくなったとき、連絡をくれる故郷の友だち夫婦
辞めてからも楽しく付き合ってくれる前職のみんな
子供たちの習い事の送り迎えを何気なくしてくれるお母さん友だち
いつも気にかけてくれるかっこよく可愛い女性経営者の先輩
楽しいアフターファイブを教えてくれた10個上の先輩たち
同じ未来を目指して歩く後輩たち
今年、本当の幸せをみせてくれた親友

母のことを取材してくれたテレビ局のスタッフのみなさん
母を快適に生活させてくれる看護士さんヘルパーさんマッサージの先生達
母を励まし続けてくれる友人のみなさん

そして、いつも私を見ているこどもたち

すべてのみなさんに
ありがとうだけじゃ足りないけれど
それしか言えない

今の私には、誰かを幸せにすることはできそうになくて
本当は、それがすごく大切なことでも...
いつも、前を向いて歩けって言ってくれてた
ありがと


生けられし 大小の花ヒマワリが 我を見つめる 娘と孫なり
我が友が 涙流してくれるなり 心と心結びついている
誰一人 欠けても生きて生けぬなり 皆さんの力 ありがとう



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2006年07月28日

病院の屋上から見た花火

母が入院している病院の町で花火があり
屋上から見学出来ると言われた

母が、花火を見るのは何年ぶりだろう〜7年かな

午前中は仕事をして、午後から講習で東京へ行き
ビルの合間から夕方の東京タワーを見ながら、伊豆へ向かう

海沿いの静かな町の花火は、お祭りが全部終わった
九時半からはじまるそう

私服に着替えた病院スタッフの方に、手伝ってもらい
車椅子へうつる

会議室か屋上か聞かれて、迷わず「屋上」と答える
「チャレンジャーですね」とソーシャルワーカーさん

始まりました

そっか〜プロポーズ花火以来の花火だ
あの花火もよかったけど今日の花火もまた感動

あのときは、1人でみた
今日は、母と他の患者さんと家族がたくさんいる

いつ誰とどこで見るかでまた、花火もかわる

今日の移動距離何キロだろぉ〜
なにやってんのかな、私...
終電にのり、ふとさみしくなったけれど
花火をみつめる母の横顔を思い出し、良い1日だったとおもった
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2006年07月18日

やりがいある仕事

今度、母が入院する病院は一種類の人工呼吸器しか使用できないので
今使っているLTV950からその呼吸器にとりかえるため
呼吸器の会社の方が来られました

LTVは超薄型で月刊誌2冊くらいのものなんだけど
取り替える呼吸器はプリンターくらいの大きさです

大きくて移動には不便なんだけど
驚くことに機械音がほとんどないのです

LTVは常にモーターが回っているのでかなりうるさい

呼吸器の会社の担当の方は、すごぉく真面目な良い方です
さいきん、待望の第一子が誕生したので「写真はないの?」と聞くと
出てくる出てくるシャツのポケットから
ラミネート加工された写真の数々が〜幸せなんですね
いいなぁ〜

呼吸器を変えるにあたって、テレビの取材が入っていたので
「この仕事をやっていて良かったことありますか?」
なにげなく聞いてみたら、間髪いれずに
「やりがいはむちゃくちゃあります」と

24時間体勢で支えてくれるなくてはならない存在です

忙しいお父さんで家族の方も大変だろうけれど
むちゃくちゃやりがいがあると答えられるお父さんがいることは
すばらしい事だと思います


posted by shio at 22:36| Comment(0) | ALS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年06月08日

難病に耐えて詠む短歌

母の生活が、テレビで放送されました

内容は、難病と診断されても、強い意志をもって生き続けること
そして、介護者(私)もすべてを犠牲にするのではなく
普通の人と変わらない生活ができること

放送後、たくさんの人からメールをいただきました

その中で、母と私のことを古くから知っている方の
お手紙がありました

何十年ぶりかにみた母の姿にしばし言葉をうしなったこと
難病におかされながらも前向きに生きている姿に感動したこと

そして、わたしへ
「これからのあなたの人生に幸多かれと願わずにはいられません」

今までも多くの方から、励まされてきました
この言葉を読んだ時、人を想う気持ちは時と場所を越えて
心の中に響くのだなと思いました

撮影は、何ヶ月間にもわたり
多くのスタッフの方が関わってできあがった放送でした

見えない力が、人を支えられる

とても貴重な体験でした
posted by shio at 00:00| Comment(0) | ALS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年02月26日

言葉はいらない空間

今日は、母と同じALSの方の交流会に出かけました

今までは、私が1人で行っていましたが
今日は、母も一緒に行きました

高速に乗り、約45分〜静岡市までは思っていたよりも
ずっと近かったと感じたのは、みなさんのおかげかな

朝から、ケアマネさんがバイタル他のチェックをしに来てくれました

そして、以前の外出でもお世話になった
難病市民ケアネットワークのご夫婦とボランティアの看護士さん
母の訪問看護に来てくれている看護士さんと中学生の娘さんが
今回の外出を手伝ってくれました

母自身、同じALSの呼吸器をつけた方と話をすることは、初めての機会

二胡とフルートの演奏会があり
その後に交流会がありました

県西部の男の方と話をしました
介助者が本人の言葉を読み取り、伝えていくのですが
母とその方は、視線だけで
お互いの気持ちを会話しているように見えました

そして、ALS協会の橋本 操会長登場
橋本さんは、30代で発病されてから、20年...
24時間サービスを使って、日本全国はもとより海外にも行かれています

橋本さんも呼吸器をつけていますが
介助者の方の読み取りがめちゃめちゃ早くて
カツゼツの悪い私なんかより、すらすらと会話されます

2年前、東京のご自宅に伺い、橋本さんをお手本に今の介護体勢をつくりました

母の呼吸器は月刊ファッション誌2冊くらいの大きさで
車椅子の手すりのところにひっかけられるようになっています

呼吸器をつけた当初からこの型だったので
特にすごいと思ったことはありませんでしたが
会場では、母の呼吸器のコンパクトさが目を引いていました

そして、母の介護サービスを参考にされたという方もいて
思わぬところで、他の方にお役にたてているようで
私も嬉しかったです

母の感想
「今日はすばらしい経験をしました、私にもなにかできそう。」

交流会に参加できることは、介護者も本人も心と体
そして、何より支援体制が整っているからです

まだまだ、外に出かけられない方たちもいるはず

私もみなさんへの感謝にかえて、東部地区で支援体制を整えていきたいです

言葉はいらなくても魂で感じあえる空間でした

橋本会長が記念写真を撮る際に
介助者の方に頼んで、母の足に手をのせてくれました

その心は、レンズを通して私にも伝わりました

Tさん とてもハンサム 車椅子立て座る 羨ましきなり
奥さんに 介護されるは幸せで この上なきと我は思う


声優志望のMちゃん
今日は、雨の中、本当にありがとう
あなたのお母さんのおかげで私の母は幸せに生活できるんだよ
お母さんのお仕事を見ることができて、とても貴重な1日だったと思います

また、お花見で会いましょう♪
posted by shio at 22:10| Comment(2) | ALS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月23日

見上げてごらん

毎年、年末になるとヘルパーさんと看護士さんが
我が家にきて、忘年会と名うった、大演芸ショーを開催してくれました

特に、山陰最後の年末は
母が年末年始を病院で過ごすことになっていたこともあり
楽しい会をプレゼントしてくれました

ハンドベル、氷川きよし、今井美樹熱唱♪、ソーラン節
シンクロ(水着と鼻つまみ洗濯ばさみで)かとちゃんがつらに腹巻でひげダンス

みなさん、絶対によしもとに入れます〜くらいの熱演でした

演芸大会の最後に、みなさんで「見上げてごらん夜の星を♪」を歌ってくれました
私の大好きな歌だったので、前奏を聴いて、泣いてしまいました

それを見たみんながまた涙していました

みんなの涙はどんな意味があったのかな

私は、ただただ涙がでました
その意味は、よくわからない...感激、感動、感謝
言葉にすると簡単に終わってしまうけれど言葉では言い表せない感情だったと思う

開けられぬ 扉と思い諦めし 開けてもらい光差し込む
我が横で いつも休まず働きし 呼吸器により 命保たれ
石段を何段も登り 開けしや さらに登ると ケアマネに言い
訪ね来る人が話すや 幸せの話に 我も喜びひたる
まりこさん 手作りリースが 我を見て サンタクロースと雪だるま笑う
植えたとき 30センチの小さな木 2メートル越す 大輪つばき
六畳の 病室だけで 作る短歌 千首を越えて さすがにずしり
なつかしき 百人一首をまた読むや 必死で覚えた中学時代
何気なく やったことが他人をも 幸せにする それが最高


いつも、ブログを読んでくれるみなさん
Merry christmas
私は明日から二日間、サンタクロースに変身するため
仮の世の姿、ブログはお休みします
(実際は、仕事の引継ぎ、追い込みのため終わるまで終わらない残業をするだけなんですが)
この二日が、世間とはまったく違った意味の勝負デーなのです

みなさんに、サンタクロースが微笑むといいですね

私も、探してきます!

posted by shio at 23:38| Comment(2) | ALS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月22日

きょうさんや男爵さんとの時間

在宅療養も落ち着き、母もパソコン操作や本を朗読してもらいたい希望があり
訪問看護師さんが、ボランティアの方を探してくれました

パソコン操作は、コメントをくれるキュリー男爵さんと知的な女性
彼らは、母と普通に会話をして普通の人として接してくれていました
それは、母がなにより喜ぶことでした
唇の動きが悪くなり、なかなか母自身がパソコン操作をするには
難しかったのですが、富士山の映像をみせてくれたり
母が好きな赤毛のアンのことを調べたり世界の観光地を見たりしていました

きょうさんは、母と同年代の方
毎回、いろりろな本を選んで朗読してくれたり
母がいろはかるたを覚えたいと言い
関東、関西、名古屋版の3種類のいろはかるたを読んでくれました

お琴の演奏もしてくれました

きょうさん 琴の音揺れて 聞こえ来る あなたと山陰 揺れ音 せつなく

揺れ音〜お琴で左手で押す特別な音だそうです

きようさんより
惚れ易き 病の床の友の歌よ 惚れにくき吾れ チト羨まし
恋の歌に負けるものかと紅ひきし 水鏡の吾れがゆらゆらゆらり

水鏡〜水に映った私の顔はゆらゆら揺れて定かではない
   私の心、私自身を映し出しているようだ。というつもり


身体的な介護が整い、母自身も前向きに生きる希望が生まれ
それを支えてくれる方達と日常的に接することは
生きていく励みになり、楽しみにつながっていたと思います

世間は3連休のクリスマスモードですね
私は、研修やら仕事やらで休みはありません
サンタクロースにもならないといけないし

介護の仕事をされているみんなももちろん休みなしですね

山陰は雪でたいへんそうですね
こちらの富士山も真っ白になり、寒そうです

クリスマスには、きっとみなさんにも良い思い出ができますように
posted by shio at 22:19| Comment(2) | ALS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月21日

在宅で

痰の吸引や栄養の接続は、医療行為といって、家族か医療従事者に限られます

介護サービスでは、看護士さんの訪問は、一日に多くて三時間
介護保険のヘルパーさんは、もう少し多く滞在できますが
当時はヘルパーさんには吸引行為が認められていなかったので
ヘルパーさんが来てくれていても、家族は家に居て、痰の吸引の度に呼ばれていました

看護士さんがいる時だけが、家族が患者から離れられる時間になります

一日に、三時間が私の限られた自由時間...

しかし、当時はサービス時間も限られた中で
ボランティアの方が多くいて、看護士さんと一緒に清拭をしたり、介護の補助をしたり
助けていただいていました

母の状態は、時間とともに悪化し
指の次は、唇、そしてまばたきと動く機能は確実に減っていきました

そのうちに 指動かなくなり 唇で センサー扱い パソコン打つなり
唇が動かなくなり めがねかけ まばたき使い パソコン打つなり
離れても 故郷の天気気になりて 天気予報を じっと見つめる


明日は、終業式
子供達、二学期も風邪もひかずによくがんばりました
給食がないので、昼休みにあわてて帰り、ソッコ〜お昼を作る私

「おなかすいたよぉ」と2号ちゃん
冷蔵庫の白菜とカニかまとシメジでクリームパスタを作りました

おいし〜いぃ!「ママって料理上手いよね?上手くない?すごくない?」
「うん。おいしいよ...」とこどもたち
あまりのしつこさに、自分でも恥ずかしくなった昼下がりでした
posted by shio at 23:46| Comment(0) | ALS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月20日

在宅療養へ

人工呼吸器をつけると、気管につまった痰を吸引器で吸わないと
本人は痰が喉につまり、非常に苦しくなります

これが一日中、昼夜をとわず、必要なことが
人工呼吸器をつけた後の介護者の大変さ、ナンバー1になるかと思います

呼吸器をつけた後、急性期の総合病院に長期入院することは不可能で
自宅に帰るか、長期入院できる病院を探すかの選択をしなければなりません

この当時は国立病院があり(平成16年に全国的に法人化されたようです)
順番を待てば、長期入院できる場所もあったようです

母の、自宅で過ごしたいという希望から、私達は在宅療養を選択しました

一般的に考えて、入院ができないなら、家で過ごす...それならば
その為のサービスは初めから整っていると思いがちです
しかし、ALSは稀な病気であり、在宅療養する人も当時は少なかったので
在宅療養を支える訪問看護士さんやヘルパーさんも
ALS患者と接するの初めてでした

母がまだ呼吸器をつける前からお世話になっていた
訪問看護師さん、社協のヘルパーさんが、在宅療養にも関わってくれることになりました
これは、大変ありがたいことで、断られるケースの方が多いかもしれません

私と母がつまずかないように、道なき道を切り開くことに
みなさんが専心されていたと思います
常に情報を集めて、前向きに、優しく支えてくれました

私自身も痰の吸引の手技を覚えたり、医療知識も頭にいれなければならず
病院に泊まって指導を受けました

この辺りは、日々夢中で、あまり記憶にないのが事実です

平成13年5月、母と家で過ごす日々が始まりました

今日2号ちゃんのお友達のお母さんが
各自の親が学校に取りにいかなければいけない鉢植えのパンジーを
我が家まで、届けてくれたようです(残り3人だったみたいで)

年末調整で残業していた私...
「あ〜とりに行かなきゃ」と忘れてはいないのですが...

本当にありがたくて、ジーンときました
放送で 短歌誉められ 嬉しきや 命の限り 短歌詠い続ける
鏡をば 見た事なきや 我顔が 悲しく歪み 口開いたまま
宗教を 持たぬ我は 気軽に 神様どうかお守りと言う
昔から 我は明るき性格で ユーモア持って生きていけるや
転勤で もう来られないと訪看さん 優しきケア ありがとう
posted by shio at 23:24| Comment(0) | ALS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月19日

病院での日々

呼吸器をつけてから、約半年間を病院で過ごしました
母が入院した病院は、今までにもALS患者さんが何人かいたようで
実際に在宅療養にうつった方もいて、看護士さんもみなさん慣れていました

呼吸器をつけると、常に呼吸器が必要なので当然、移動は非常に困難になります
車椅子に移るとしても、5人がかりでした

母は声を失いましたが、口の動きだけで会話は充分なりたちました
また、指も数本は動いていたので、ナースコールをセットしてもらっていました
ほぼ1日中なりっぱなし...

コミニュケーションをとる為に「伝の心」という日立のパソコンが
厚生労働省の日常生活用具の対象品目「意志伝達装置」として支給されます
 
<補助金給付の条件>
各地方自治体で給付条件が異なりますが、一般的には次に該当する方が対象

・身障者手帳1級(四肢麻痺)
・言語障害3級


入院中には支給されないケースもあるようですが
作業療法士の先生が、セットや調整もしてくれて
母はすぐにパソコンでの意思伝達操作に、夢中になっていました

そのときから短歌作りを始めたのですが
パソコンが壊れてしまい、今、その短歌を取り出すことができません

若い看護士さんが、母の担当で本当に手厚く看護してもらっていました

ただ、母は体のだるさを訴えることが多く
私は1日付き添っていて、体をさすったりしていました
行けない日は付き添いの方を頼み、ほぼ毎日、誰かが付き添う入院生活でした

春になり、そろそろ退院する話が出始めました

ごめんねと 言われてもまた 辛きもの ただ待つのみは それほど辛し
さすられて 医学で出来ぬ 薬なり 身体癒され ゆったりとする
初めには 呼吸器つけても お茶も飲み プリンも食べて イチゴも食べる
動きたる 指三本で パソコンで 手紙書いたり 短歌作ったり
ためらいて ナースコール押すたびに 駆け来る人よ ごめんねごめん
posted by shio at 23:51| Comment(4) | ALS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月18日

人工呼吸器をつけて生きること

平成12年の夏頃から、足がもつれるようになり
支えられないと歩けなくなりました

しゃがんでしまうと、立ち上がれない

庭でよく花の世話をしていた母を一人にして
用事を済ませた後に見ると母は庭にしゃがみこんだまま
立つことができずに呆然としていることがよくありました

秋には、痰が出にくくなる症状が出始め、度々、点滴をしていました
その症状が毎日、度々でるようになっていた11月
突然、呼吸困難を訴えました
すぐに、先生を呼び、そのまま救急車で告知を受けた総合病院へ向かいました

母と私の間には「呼吸器はつけない」と決めていました
きちんと、話し合ったわけではなく、知識もなくただそう決めていました

病院へつくと、もう呼吸器をつけなければいけない程の状況にあり
あまりにも突然だったことと
病院まで付き添ってくれた近所の先生が
「今、呼吸器をつけないとあとで後悔することになる」
この言葉が私には強い信念をもった言葉に聞こえたので
意識が遠のく母にも了解を得て、呼吸器装着にいたりました

その後、3日ほどの記憶が母にはないそうです

呼吸器をつけたあと
今度は、栄養を維持するための「胃ろう」というものを造設しました
胃に直接、流動食を入れるために...

今ではこの栄養補給は長女がとても上手にやってくれています

片道1時間の病院にほぼ毎日通う日々が始まりました

その日まで歩いていたのに 突然に 呼吸困難になり 呼吸器つけて
一時も自力呼吸が出来ぬ我 呼吸器をつける感謝と恐れ
我できぬ 拒否することは 呼吸器を 死を待つことは とても恐ろしい
飲み込みが できぬ辛さは 喉の奥なにか詰まりて 膨張した感じ
何気なく さわりし呼吸器 この辛さ 他人にはわからず 我だけにしか
当たりたる 宝くじと同じなり ALSは 稀なる病い
吸引す その後まず届きたる 呼吸器の空気 澄んで冷たし
花の名を 知ってるだけで 見ていると 心深まり 感激強し
posted by shio at 09:41| Comment(2) | ALS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月17日

すべての始まり〜みんなとの出会い

その後、治療法がないので通院する必要もなく、母は家ですごしていました
母には友達もいなく、私も昼間は働いていたので
母は図書館に通ったりしていたけど、もどかしい日々だったと思います

国の特定疾患なので、医療補助が受けられ
また、介護保険もちょうど始まったところで、介護認定をうけました
そして、今後の生活の介護サービスプランをたてるために
ケアマネージャーさんが訪問してくれました

デイサービスというところ...みなさんは知っているでしょうか?
母はここに週に何回か通うことになりました

送り迎えをしてくれて...昼間そこで過ごします
一般的にはお年寄りが行くイメージが強いデイサービスですが
母はもともと社交的で人と話すのが好きだったので
自ら進んで、更にはとても楽しんで通っていました

その施設に優しく楽しいヘルパーさんがたくさんいたからだと思います
給食もとてもおいしいといつも言っていました

1号ちゃんが通う保育園でデイサービスとの交流があり
ちまき作りをしたのですが、母は両手を使えないので見ているだけです
その時の写真がありますが、すべてを受け入れて孫を見守っている母の微笑が
今でも忘れられません

一緒に作りたくて、もどかしいだろう
でも、私に不満を言ったことはなかったです

その後、家にいるときは訪問看護師さんが来てくれる様になり
庭にでたり、リハビリをしてもらったり、毎日穏やかに過ぎていきました
介護を仕事にする方達とこのときに初めて出会ったのですが
みなさん、明るくて優しく元気な方ばかりでした
彼女達と出会っていなかったら
私も母もこの病気と歩む決意をもてなかったと思います

告知受け なぐさめられし言葉とは 好きなこと全てやったから
いつの日か言われたことあり 病でも 一人でなく娘と孫がいると
隠岐の島 行ったことあり 孫連れて 主人も一緒にそれは楽しき
小豆島 母と一緒に孫も行く 昔のよさを思い起こす島
発病は孫が生まれる少し前 孫の成長 病の進行
1つでも役に立つことできぬかと 風に揺れる 若葉のように
部屋だけに飾っておくと だんだんに 色薄くなり 元に戻れぬ鉢植えの花


posted by shio at 21:11| Comment(0) | ALS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年12月16日

告知〜筋萎縮性側索硬化症

帰ってまもなく、母が風邪をひいたので
家族でお世話になっていた近所の開業医の先生の所に連れて行きました

先生は、近くの市の総合病院で外科部長をされていましたが
何年か前に私の住む町に帰って、まさに地域密着の医療をしていました

先生の顔をみたら、風邪なんか治る...そんな気がする温かい先生
後に母が呼吸器をつけて、在宅療養に移った際、快く往診を引き受けて
ちょっとのトラブルにもすぐにかけつけてくれる頼もしい先生でした

両手の機能を失っていた母を見て
神経内科の良い先生がいると総合病院を紹介してくれました

車で一時間の距離にあるその病院に、早速、受診した母に
神経内科の先生は「2週間後に家族を連れてきてください」とだけ言われました

なんだろう...様々な悪い予感がしましたが
それでも、その告知は想像をはるかに超える暗闇への宣告だったように覚えています

平成11年5月...発病から1年後に病名が告知されました
「ホーキング博士」がかかっている病気であること
「運動ニューロン病」...知らない言葉だけが空を飛び交い
まったく現実味をもたない他人事のような時間が過ぎていった

帰ってからインターネットで色々なことを調べましたが
治療法がない、身体機能は確実に失われる
呼吸筋が麻痺したら人工呼吸器をつけなければ生きられない

確かな事実だけが目の前にあふれていた

治療法がない難病なので、病院に行ってもすることがない
重篤な病気なのにクスリも治療もない

ALSと診断されるまでには、ある程度の期間が必要なようです
7年前のことなので、今は告知も変わってきているかもしれませんが
もう少し、その後のフォローがあったらなと今は思います
(それをどこに求めるのかわかりませんが)
当時は家族会や同じ病気の人と直接知り合う機会もなかったので
ウソであって欲しいという気持ちだけで
これから起きるであろうすべての不安や現実から遠のいていたように思う
治療法がないから、病院へ行く必要がないのは、よくわかります
でも、それではどうしたらよいのか、途方にくれてしまいます
 
精神的なケア(今は難病相談室も各地に出来て、だいぶ変わってきているはずですが)が
常に必要な病気です
それは今も変わらない願いです

母は泣くこともなく、ただ淡々と日々を過ごしていました

だんだんに筋肉衰え 力なく はし持つこともできなくなりし


気持ちよく 眠りにおちると何もなく 過ぎたる時よ ありがたきかな
寝室が2階にあるも 我のため 隣の居間で娘寝てくれ
病にて 時間たっぷりあまるほど 振り返るなり それもよきかな
人生で やれるときやる それがいい 判っているが なかなか難しい
時とまれ 思うことあり 反対に 速く過ぎよと祈ることあり

posted by shio at 21:09| Comment(2) | ALS | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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